Journal

2021 Jul 02
Helte's Story

Helte history -Episode1/5-

「僕のあれこれ」

Helte 後藤 学


身近にあった外国

フロリダにいる第二の家族と初対面

毎年届いたアメリカからのカード

うちは祖父、祖母、母、僕の4人家族。母はフリーランスのカメラマンで、僕が幼い頃は海外撮影で1ヶ月近く家を空けることもありました。国内の仕事もよく泊まりがけで出かけていました。その頃の僕の楽しみは、撮影で訪れたいろいろな土地の母からのおみやげ。特に海外撮影後は、英語の童話の本やユニークなおみやげを渡されて、海外での経験談をたくさん話してくれました。

僕が生まれる前、母はアメリカのサーカス団に同行して何ヶ月も全米各地をまわって撮影をしていた時期があったそうで、その話もよく聞いていましたし、その時のサーカス団のピエロさんの家族からは、僕の誕生日とクリスマスに毎年欠かさずカードが届きました。海外から届くカードはやはり特別な感じがありました。母からは、「アメリカのおじいちゃんとおばあちゃんだね」という感じで言われていたので、海外との距離感は近かったような気がします。

 

サーカス団とアメリカをまわっていた頃の母
サーカス団の団長と母

初めて海外へ行ったのは、幼稚園の頃だったと思います。母の仕事に同行してハワイで2週間くらい過ごした記憶があります。

小学校を卒業した春休みには「卒業旅行」と称して毎年カードを送ってくれたサーカス団の家族に会いに、アメリカ・フロリダへ行きました。アメリカに居ながら僕のことをずっと気にかけてくれた家族です。「アメリカにいる家族、アメリカに居ながら僕のことをずっと気にかけてくれた家族、おじいちゃんとおばあちゃんにやっと会えた」という気持ちでしたね。

僕は少年野球をやっていたので、そのときメジャーリーグ観戦ができたこともすごく嬉しかったし、あとは、そうですね、アメリカは広いなあとか、オレンジジュースの匂いがするなあと思った記憶があります(笑)。
小学生のときに英会話教室に入れられてはいたんですが(笑)、その頃はまだ英語をしゃべることはできなかったので、コミュニケーションは片言の英単語と身振り手振りだったような気がします。そういえば、ピアノと剣道も習わされていましたね(笑)。

フロリダの第二の家族



野球が架け橋となって海外へ

野球を通して海外交流

中学・高校は、野球に打ち込む日々でした。
中学校の頃は、野球部の先生が少年野球を通じて国際交流まで見据える方だったので、野球を通して貴重な異文化体験ができました。地元の中学の軟式野球チームに入部したんですが、先生の方針でクラブチームの連盟にも登録していて、3年生のときに千葉県浦安市で開催された少年軟式野球世界大会に出場することができたんです。アメリカ、フランス、台湾、ブラジル等々の10ヵ国以上の国が参加していました。
大会ホスト国が外国の選手のホームステイ先になるということで、我が家も受け入れ先になって、フランスの代表チームの選手がやってきました。わずかな期間でしたが、言葉は通じなくてもボール一つで、いろいろな国の人と繋がることができるということが感覚としてわかった。今に繋がる経験ができました。

実は、彼らとは、僕が大学生で欧州をまわった際に、フランス南部のモンペリエという小さな街で再会し、今も交流が続いているんです。中には WBC(ワールド・ベースボール・クラシック )フランス代表選手もいるんですよ。

その後、メキシコ遠征にも参加しました。この時、メキシコシティでの試合はメキシコのナショナルチームのみでしたが、野球以外のことでも何もかもが新鮮な体験でした。

メキシコでの試合後にホストファミリーと

高校時代は、朝早くおばあちゃんが作ってくれる朝食を食べて、1時間かけて登校。放課後は夜遅くまで練習して、10時過ぎに帰宅しておばあちゃんが作る夕食を食べる日々。ちなみに母は、ホットケーキとソーセージ、ベーコンを焼くことしかできません(笑)。とにかく野球漬けの毎日でしたが、試合ではなかなか結果は出ませんでした。それでも厳しい練習を通じて培った精神と野球部の仲間は、かけがえのない僕の財産です。

 

亡くなった仲間に背中を押され

大学は日本大学国際関係学部へ進みました。
留学プログラムが充実していたので、漠然とながらいつかは海外で勉強してみたいなという気持ちはありました。でもお金もかかることですし、行動を起こすこともなく、それなりに楽しくキャンパスライフを送っていました。
そんな僕が変化したのは、大学1年の終わり頃、ちょうど東日本大震災の直前でした。高校時代の野球部の仲間のひとりが、韓国・ソウルで不慮の事故で亡くなったのです。僕が初めて直面した身近な、大切な人の死でした。

野球部の仲間のほとんどが国内の大学に進んだなか、彼だけが韓国の大学に進み、将来はパイロットになりたいと明確な夢を持っていました。勇気を持って日本を飛び出し、まっすぐに将来の夢に向かって歩んでいた彼の夢は、途中で途切れてしまった。

彼の無念を思うと、日々に流されて生活をしているだけの自分が恥ずかしくなりました。仲間も皆そう思ったようです。「あいつの分まで一生懸命生きよう」と声を掛け合いました。
僕は、留学したいという思いを行動に移すしかないと思いました。亡くなった仲間が背中を押してくれたのです。そこから校内の選考を受け、大学2年生のときにアメリカ・ワシントン州立大学へ留学したのです。



アメリカ留学とインド留学

クリスマス休暇をアメリカ・サンディエゴの友人宅にて

多民族国家で感じた自由

アメリカという国自体が多民族国家ですが、留学先のワシントン州立大学には、本当にいろいろな民族、いろいろな宗教の人たちが学びに来ていました。差別や区別は確かにありましたが、周囲を見渡すと、僕の目にはその違いをいい意味で尊重しているように映りました。「私は私、あなたはあなた。違うのは当たり前だよね」という前提で相手と接している。僕にはそれがすごく自由に感じられて、心地良いものでした。

留学後、一度日本の大学に戻り、「さあ、これからどうしよう」と考えたとき、アメリカでの生活は、異文化体験ではありましたが、お金さえあれば欲しいものが手にできるという点では日本とあまり変わらないため、次は日本やアメリカとは180 度違う環境に身を置こうと思いました。使えるお金も限られているので、物価の安い国がいいなと調べているうちに、大学のプログラムでインドのゴア大学が留学先にあることを知り、8月に出国して翌年の3月までのプログラムに参加しました。

日本での当たり前が「幸せ」と気づく

インドの西海岸にあるゴアはインドで最も裕福な州と言われ、リゾート地として有名です。ですが、特にゴア大学の周辺は本当に田舎。夜、外に出ると街灯もなく、月明かりだけ。聞こえるのは虫の音と、道路を自由に行き交う何頭もの牛たちの気配だけという環境です。

ゴアでの生活は、日々衝撃の連続でしたが、最初から最後まで戸惑ったのはカースト制度と呼ばれる厳しい格差社会でした。大学の中でも学生の名前や振る舞い方でもカーストがわかります。カーストによって将来の就職も大きく変わる。パーソナルなことを話せば話すほど、カーストの理解が足りないと相手の本質が見えにくく、難しい問題だと思いました。

毎日の生活も驚くことばかりでした。大学の寮は1日に3回くらい停電になるのです。僕の部屋では太陽光を使った自然エネルギーで電気を供給していましたので、雨が続けば当然停電になり、Wi-Fiも使えなくなります。ファンはあるけど、クーラーはなく、天井の隙間からネズミが落ちてきたり、赤いカエルが入ってくる。シャワーを浴びるにも水しか出ないし、洗面器に貯めた水は茶色。
最初は停電のたびに面白がって騒いでいましたが、慣れてくると自分の部屋でロウソクを立て、ベッドに横になることくらいしかできず、授業でインド哲学やヨガを学ぶ影響もあったからかもしれませんが、自分を見つめる時間が増えていきました。

最初は、停電がなく過ごせたらいいのにとか、お湯が出たら幸せだなあと思っていました。それが、想像もできないほどの貧困の中で生活する人々と出会い、接しているうちに、だんだんと屋根のあるところで過ごせるだけで幸せかなと思うようになり、究極、家族がいるだけで幸せなんだと、気持ちが変化していました。
日本では当たり前だと思っていたことの全てが、とても恵まれていることだったと気付いたんです。

8か月過ごしたインドの寮

自分を見つめ直すきっかけになったインド

そして、アメリカとインドの2つの大学に留学したからこそ気付いたのが、僕自身のコンプレックスでした。
僕が育った実家のエリアはいわゆる新興住宅地で、母子家庭の家はほとんどありませんでした。小さい頃、母の外国土産を学校に持って行くと「なんで、お母さんが海外に行っているの? お父さんは何をしているの?」とストレートに聞かれます。野球の試合の応援に家族が来られないと「なんで後藤くんの家はお父さんやお母さんが来ないの?」と。無邪気に投げかけられた言葉に傷付く僕でした。僕自身がステレオタイプの「フツーの家族像」に囚われていたのです。

インド留学は、そんな過去の自分を少しずつ見つめ直すきっかけになりました。
また、それだけでなく、ボランティアで通った孤児院ではどの子も無垢な笑顔を僕に向けてくれました。その笑顔になんだか希望をもらった気がしました。そこで、「将来は新興国の人たちに貢献できるようなことをしたい」というぼんやりとした思いが生まれたのです。

インドのスラム街で出会った子どもたち

>>Episode2/5へつづく

(聞き手・officeSAYA  小出広子) 

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