あの日の出来事、今だから話せること(3月7日交流会のご報告)
交流会のご報告
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3月7日(金)「あの日の出来事、今だから話せること」
「あなたはあの日、どこで何をしていましたか?」-東日本大震災から14年が経った今も、多くの人が忘れることのできない出来事です。今回の交流会では、当時の記憶をたどりながら、それぞれの体験や想いを共有しました。震災を経験した日本の皆さん、海外から見守っていた方々、それぞれの視点からの言葉をお届けします。そして、開催を目前にした、大阪・関西万博ではそんな被災地の復興をテーマとした展示が実施されます。これまでの万博、間もなく開催される万博への参加者の皆さんエピソードもご紹介しています。
【東日本大震災-14年前のあの日、私は…】
・異国の地で募る無力感と祈り
祖母の付き添いで東京へ行き、名古屋から岐阜へ戻った帰り道、あの揺れに遭遇しました。 生前はとてもアクティブだった祖母も、足腰に不安を感じるようになり、私に頼ってくれた矢先の出来事でした。その後すぐ、海外へ渡った私は、日本の状況をニュースで見守ることしかできなかった日々。日に日に深刻になる被害の様子を異国の地で見ているだけの無力感は、今でも忘れられません。
・車中で迎えた揺れ、翌朝知った現実
運転中、突然ピーッという音が鳴り響き、車を止めた瞬間に大きな揺れが始まりました。仕事中だったこともあり、すぐには状況を把握できず、何が起こっているのか分かりませんでした。その日は得意先のお客さまの接待へ。翌朝、テレビをつけると目に飛び込んできたのは信じられない光景でした。
・ビルの25階で体感した長い揺れ
震源からは遠いはずなのに、25階のオフィスは長く大きく揺れ、机の引き出しが次々と飛び出してきました。徒歩で帰宅できましたが、エレベーターが止まったため、会社に泊まった同僚は備蓄食料を取りに行くのも一苦労だったそうです。この経験から、自宅の耐震補強や食料・水・モバイルバッテリーなどの防災用品を改めてしっかり備えるようになりました。
・つっかえ棒が守ったオフィス
当時7階のオフィスにいましたが、1週間前に設置したつっかえ棒のおかげでロッカーが倒れずに済みました。もし倒れていたら、大きな被害になっていたかもしれません。その日は帰宅を諦め、すぐにコンビニへ。まだ開いていたので食料を確保し、事務所に泊まりました。翌日、徒歩での帰宅ルートを確認しながら帰宅。この経験から、大地震の際は無理に動かず、安全な場所で待機することの重要性を痛感しました。
・送別会中の激震、暗闇の一夜
駅近くの日本料理店で送別会をしていた最中、突然の揺れに慌てて掘りごたつの中へ。店の電気も消え、状況が分からないまま、急いで精算し外に出ると、駅前にはあふれんばかりの人。信号の消えた道を必死に帰宅しましたが、家ではテレビも電話も使えず、真っ暗な中で長い夜を過ごしました。防災委員だったこともあり、すぐに動ける服装で就寝。その後、備蓄品を慌てて揃えましたが、いざという時にすぐ取り出せるかが不安です。
・ジャガイモを植える手を止めた揺れ
あの日、ちょうど畑でジャガイモの種を植えていました。作業中の私にはそれほど大きな揺れには感じられず、地震の深刻さもわからないまま帰宅。しかし、家では「なんでこんな大地震なのにすぐ帰ってこなかったの!」と怒られたことをよく覚えています。
・異様な空の色と停電の街を歩いた寒い夜
地震が起こり、慌てて外に飛び出すと、電柱の上の方が大きく揺れていて、空もどこか不気味な色をしていました。その日は定時まで仕事をし、夜は日本語ボランティアの仲間と会食。その帰り、9時近くになって電車が止まっていることを知り、暗く寒い道を歩いて帰ることに。その後、被災地支援のボランティア活動に参加。全国から図書を集め、被災地の子どもたちに届けたり、気仙沼では七夕飾りを作って地元を励ましたり。生協の企画でも支援活動を行いました。震災を通じて、人とのつながりや助け合いの大切さを改めて感じた日々でした。
・アニメを通して伝える
「東日本大震災」を直接的に描いた新海誠監督の作品、"雀の戸締り"震災の事実と教訓を知り、未来を考えるために、世界の方、震災を知らない世代の方にもぜひ一度は見てほしい作品の1つです。
・停電しなかった区域
テレビを見ていたら、突然の激しい揺れ。飼っていた猫を避難させていると、隣の家の食器棚が倒れる音や、上の階からテレビが割れる音が響きました。揺れが収まり外に出ると、ガスが止まっていたので復旧方法を周囲に教えて回りました。停電に備えて急いでお風呂を済ませましたが、待てども停電せず…。私の家は幹線道路沿いの商業地区で役所もあるため、停電にならないエリアだったようです。それを知らず「何時から停電になる?」と慌てて準備をしていたのを思い出します。
・電車内で知った大津波
震災の瞬間、私は常磐線の電車の中でした。突然電車が大きく揺れ、停車。しばらくすると、誰かがスマホで「大津波が来た」と言い、社内がざわめきました。余震で電柱も揺れる中、ドアが開き、乗客は松戸駅まで歩いて移動。電車は動かず、ようやく見つけたバスで帰宅しました。
・判断力を奪う空腹と、思い出を守る活動
病院で検査の付き添い中に揺れに遭遇。何が起こったのか分からず、空腹のあまり「まず食べよう」と、危険を顧みずエレベーターで食堂へ…。後になって冷静さを欠いていたと反省しました。現地支援は難しかったものの、茅ヶ崎で流された写真を洗浄しアルバムを作り直すボランティアに5年間参加。写真の持ち主の無事を願いながら作業しました。
・暗闇の中の帰宅
川崎市の病院の駐車場で、突然空が真っ暗になり、激しい横揺れが車内で感じられました。車が倒れそうなほど揺れたため、外に出ました。その後、病院での仕事に戻ると、病院内は意外にも落ち着いていました。商談を済ませ、夜に車で帰宅することになりましたが、道路は真っ暗で信号もついていません。車のヘッドライトだけを頼りに、ゆっくりと慎重に家に帰り着きました。
・あまり揺れを感じなかった関西
関西では、ほとんど揺れを感じませんでした。神戸の震災に比べると全く揺れていなかったので、後で地震のことを知りました。震災時、事務所の近くに電力会社の方々が集まっているのを見かけました。
・冷静に行動する大切さを実感した震災時
震災時、私は豊洲のビルにいました。揺れが激しく、液状化現象で地面がグワングワンと揺れ、水も噴き出してきました。誰も指示を出してくれず、不安が募るばかりでしたが、有志の方と豊洲から有楽町まで歩くことに。公衆電話の前には長い列ができ、地下鉄の駅ではみんなが座り込んでいました。電車が動く見通しが立たず、また1時間かけて会社に戻り、余震が続く中で一晩を過ごし、翌日ようやく家に帰ることができました。現地の方々の苦しみは計り知れませんが、この体験から、冷静に判断して行動することの大切さを強く感じました。
・トルコの大地震(トルコのSailerさん)
東日本大震災の話題で、2年前にトルコで起こった大きな地震を思い出しました。震度7の大きな地震が夜と昼に2回も発生しました。私はその時離れた場所にいましたが、SNSで被害の様子を知り、壊れたビルの中で助けを求める声や子どもたちの叫び声に心が痛みました。その後、何週間か眠れませんでした。東日本大震災の津波映像は映画のようで信じられないくらいショックでした。
・日本で洪水を経験しました(アメリカのSailerさん)
大震災に比べたら規模は小さいかもしれませんが、30年くらい前の夏、鹿児島で大雨がありました。その時、川が氾濫して、道路は浸水。私は市内のスポーツジムにいて、外に出ると道路は1mぐらい水が出ていて、泳ぐ人もいました。帰れなくてホテルで過ごしましたが、停電で、結婚式の披露宴のある会場に集まって一夜を明かしたんです。翌日、一時間半ぐらいかけて帰宅しました。本当に怖い経験で、もし大きな地震があれば、それはどうなるかと心配します。
・シベリアの地震(ロシアのSailerさん)
動画で震災の様子を見ました。実際にあんなに大きな津波が来たなんて信じられない光景でした。とても怖かったです。今は地震がないところに住んでいますが、以前はシベリアにいました。そこのバイカル湖の近くでは地震が起こります。大きな揺れではありませんが、それでもやっぱりちょっと怖かったです。
・現地で被災された方のお話(宮城)
私は宮城県から参加しています。この交流会で現地で被災したのは私一人かなと思い参加しています。皆さんの中でその記憶を、その日を少しでも思い出していただけたらというころはありますね。当時はちょうど仕事中で、パソコンが机から飛びました。壁掛け時計も飛んできて社員は揺れ動く自分の体を抑えるのに必死で、机の下に隠れろっていう事態でもなかったですね。会社からは帰れるものは帰れと言われ、外へ出ると、電柱が揺れいました。JRは全然ダメで、雪が降ってきて、寒くてしょうがなくて、近くの銀行に入ったら一晩あかせますって言われたので、そこに逃げ込みました。家族との連絡も全くつかなくて、やっと通じたのが夜の9時ぐらい。私の実家は津波で流されました。主人の実家も流されたので、両方ともお家がなくなりました。一晩開けて帰ってきたのはいいんですが、仙台駅ではスプリンクラーが作動して、水浸しでした。翌朝タクシーも、バスもダメでどうしようもなくて、乗り合いで帰宅しました。残念なことですが、夫の両親は津波で亡くなりました。今、生かされている者は生き抜いていきなさいということでしょう。
【20年前の愛・地球博】
・当時、トヨタさんを担当していて、招待されてそちらのブースへ行きました。ロボットが一斉に踊る姿に感動しましたね。記念品のピンバッジを妻のお土産に購入したんですよ。
・浜名湖に一泊して、翌日名古屋にいる長男の家族と待ち合わせて、一日楽しみました!
・懐かしいキーホルダーがでてきて、当時の思い出が蘇ってきました。
・主人の実家が名古屋ですから、そこに遊びに行くついでに行きました。並びましたね。
・筑波で万博が好きになったので、愛・地球博にも行きました。モリゾウのぬいぐるみも買いました。冷凍マンモスだけ、すごく並んでいましたね。
・モリゾウとキッコロのグッズが学校で流行っていたな。
・歌手のミーシャさんが歌っていたのは見てみたかった。
・現役でバリバリお仕事をしていたのであまり興味が湧きませんでした。
【55年前の大阪万博】
・当時は高校2年生、修学旅行の代休で訪れました。富士通のロボットがあって、音声で指示を出すと、その通りに動いて、当時の最新技術を目の前にすごく感激しましたね。
・道路が非常に混んでいたな…
・覚えてるのは岡本太郎のやっぱりあの像ですね!
・中学校3年生で、SONYのマイク付きのポータブルカセットレコーダーで、習いたての英語で外国の方にインタビューして楽しみました。
・生まれて初めてブルガリアヨーグルトを食べて、酸っぱさに驚き、一杯1500円ですごく高かったなという記憶があります。
・大学1年生テニス部の仲間と泊りで行きました。月の石にも、おしゃべりを楽しみながら何時間も並びましたね。
・美術家・横尾忠則さんの手がけた「せんい館」のパビリオンが印象深かったですね。
・大阪万博と言えば、「こんにちは、こんにちは、世界の国から~♪」あの歌ですね!
・中学校の時みんなで行って、動く歩道に感激した記憶があります。
・社会の教科書で太陽の塔が載っていました。
・クレヨンしんちゃんの映画に取り上げられていて身近に感じました。
・日本の国がとても元気があって、どんどん経済もその豊かになってきた時だったな。
・大阪へ転勤になって、太陽の塔を見ました。岡本太郎さんもスペインに行かれていたとかで、太陽の塔に似たようなのがあって、日本とは違った雰囲気の美術に触れられて参考にしたのかなと想像しました。
・万博終わった後に、吹田にある万博公園へ太陽の塔を見に行ったりしました。
【筑波のお話】
・1985年の筑波万博は行きました!
・当時アルゼンチンからちょうど一時帰国しているときで、家族で行きました。
・子供の頃で、はっきり覚えていませんが、とても楽しかったので家族で2回行きました!
・筑波博ではロケット見ました。
【開幕を目の前にした大阪・関西万博】
・昔は当日券でこんなにチケット購入も大変じゃなかったのになとか思いながら…
めげそうになりましたが、チケットちょうど先ほど購入できました!
・国内で開催された万博は全部制覇してきたので、今回も!と思っているのですが…
・チケットはエントリーしてあります!
・能登の復興に力を入れた後に開催していただくと、ありがたいという思いがあります。
・実は万博には一度も行ったことがないので、今回参加したいなと楽しみにしています。
(世界Sailerさん)
時間の都合上、お話をお聞きできなかった方、終了時間以降も最後までお付き合いくださった方、交流会にご参加くださったSailerの皆様ありがとうございました。
この場を通じて、Sailを通じて、皆様の貴重なお声がより多くの方に届きますように!
また次回の交流会でお会いできることを楽しみにしております😊